『フーカビカ』

この本は主人公の遺書と寓話で構成されている。  あの図書館司書の話は今となっては遅すぎたのだと実感した。僕が今この文章を書いている端緒となった話だ。  ある水曜日の昼下がり、僕は散歩をしていた。定職には就いていないため特段することもなく、読書をしたり物思いに耽ったりするばかりで、活動的な行為は散歩しかなかった。普段は朝にしているのだが、この日は少し寝過ごしてしまったため昼下がりに散歩をしていたのだ。気温はそれほどでもないが、日差しが過ぎる程に強く照っており、眩しさを理由に人殺しをしたとしても不自然ではないくらい、いやに眩しかった。日陰に入りたかったし、せっかくいつもとは違う時間帯に散歩をしているのだからと思い、いつものルートからそれて横道に入っていった。  道の両側には木々が立ち並んでおり、日差しを程よく遮っていた。とても心地の良い時間だった。僕は口笛を吹きながら何気なく自分のこれまでの人生について遡って考えていた。  今でこそ定職にはついていないが就職自体は経験がある。だが半年程前にやめてしまったのだ。理由は僕にも明確にはわからない。一時の気の迷いだったかもしれないし、それまでの人生で少しずつ堆積した何かが、退職に追いやったのかもしれない。気づいたらふっと会社をやめていた。  就職する前はずっと音楽の道に進みたいと考えていた。だから、進学の時点で周囲の反対を押し切れず、音楽学校に通うことを諦めたのをずっと後悔していた。もちろん音楽学校へ進学せずとも音楽を作ることはできる。できたはずだった。けれどもついに1度も作ることはなかった。  結局のところ僕にあるのは音楽的才能ではなく、ただ誰かが作った何かを楽しむ趣味としての意欲程度のものだったのだと、しばらくしてから悟った。  そのようなことを考えているうちにだいぶ歩いていたようで、僕はT字路に突き当り、そこで小さな看板が立っているのを見つけた。文字がかすれてしまっていてうまく読めなかったが、どうやら図書館の看板らしい。左右にはさらに小道が続いており、左の道の先には湖が見え、かすかに人々が談笑する声が聴こえてきた。右の道の先には建物が見えた。どうやら看板が示している図書館のようだ。  図書館はいわゆる現代的で綺麗な外観ではないものの、どこかの御伽噺にでも出てきそうなカントリー調の、図書館としてはだいぶこぢんまりとした様相をしていた。僕はひと目でこの図書館を気に入ってしまい、中に入ってみることに決めたのだった。  図書館へと続くこの小道にはイラクサやエニシダ、アネモネを始めとした草花が咲いていた。吸い込まれるように入り口へと歩いていき、重い木製の戸を開け、中を覗いてみると僕はすっかり関心してしまった。本棚にはびっしり本が詰め込まれており、立てられた本と上の段の底板との隙間には、横向きにして更に本が詰め込まれているほどだった。図書の管理としては杜撰なように見えたが、本棚やテーブル、長椅子がお洒落なレバノン杉製のもので統一されており、ファンタジー世界の魔法図書館かなにかにでも迷いこんだようで楽しい気分になった。かなり詰め込むような蔵書の仕方をしていることもあり、建物の規模の割に蔵書量は多いようだった。どれもハードカバーの本で、ジャンルとしては哲学書や小説、詩歌集、歴史書など様々な本が散見された。本を見て周っている内に、またしても僕は物思いに耽っていた。  音楽の道を諦めたことは最初の内こそ辛かったが、次第に絶望ではなく安堵や陶酔に近いものに変質していった。僕の中では失志や失恋などといった何かを失う行為は、時間の経過とともに体の良い想い出になってしまいがちだった。  この時はショーペンハウアーの本が視界の隅に入っていた。  思えば仕事を辞めてからというもの、僕は読書ばかりしている。退職して少し社会との距離ができたことで、さながら俗世との関係を断った過去の賢人達と同じ境遇にでもなったかのように、本を読み哲学をしているつもりになっている。ニュースを見てはここがだめだのなんだのと頭の中で論駁している。でも、自分の意見を立てるときの根拠はいつだって先人の言葉を借りるばかりだった。僕はきっと自分には何もないことをわかっているから、他人の言葉を借りて自分を満たそうとしているにすぎないのだと思う。  しかし、悲しいことにこれもショーペンハウアーの言葉のパスティーシュでしかないのだった。  僕はいわゆる何者かになりたいけれど、なろうとはしていないどこにでもいるタイプの人間なのだと思う。とにかく今の僕はといえば、なりたかった"何者か"などとは懸隔しており、あらゆる過去の時点をきれいな想い出にしてあの頃は良かったなどといいながら、それを消費し続ける者に成り下がっていた。  ふと窓の外を見ると、いつの間にか太陽の位置がかなり下がっていた。差し込んだ陽の光に照らされた埃がキラキラと輝いていてなんだかとても綺麗に見えた。 「そこの方。」 不意に呼びかけられ、声のする方へ振り返って見ると、気の良さそうな老人が立っていて、驚いた様子でこちらを見据えていた。 「な、なんでしょう」 僕は少し上ずりながら返事をした。人と話すのは随分久しぶりだったので声が出づらかった。 「よくぞおいでになられました。」 と老人が言う。 「あなたは?」 「私はこの図書館の司書を務めております。まさかここまでいらっしゃるとは思っておりませんでした。」 老司書は1冊の本を僕に差し出して続けた。 「この本をお読みなさい。私にできることはもはやこれくらいしかないのです。」 本の表紙には『風化』と書かれていた。 「お話はその本を読み終えてからにいたしましょう」 老司書は柔和な態度を取っているものの、それ以上何かを語ることはないというように感じられたので、僕はとりあえず渡された本を読むことにした。 渡された本は寓話だった。 フーカビカという街に"普通の人々"がいた。その人々は普通に勉強ができ、普通の容姿をしていて、普通の仕事についていた。そして、ある普通の男が普通の女と番になった。男はあらゆる面で普通であった。普通の男は普通の生活を送って歳をとっていき、次第に普通だった過去を想い出として美化し始めた。ありふれた辛い出来事もすごく辛い出来事だったがあの経験があるからこそ今があるなどと思い始めた。  そして普通の男や女達は度々仲間と集まっては、美化した一般的なイニシエーションを語り合い、あの頃は良かったと、あることないこと口々に言い出すのであった。 しかし、何よりも愚かしいのはそれが美化した想い出であることに当の本人たちは全く気づいていないことであった。  やがて、男は女を知り、子供を授かった。男は常日頃から、もっともっと鮮明に楽しかったあの頃のことを思い出すことができれば、語り合うことができれば、僕たちは皆幸せになれるのではないか、老いや現実で起こる辛いことから目を背けていられるのではないかと考えていた。  そこで、男は生まれてくる自分の子供の成長を事細かく映像で記録し始めた。これを続けて、成人した時に渡してあげようと思いついたのであった。  子供は親と同じように普通の家庭で普通に成長していった。やがて成人し、子供は親からビデオを渡された。子供はこれを大層喜び、早速ビデオを見始めた。  しかし、しばらく経ったある日、子供は仲間たちといつも通り楽しかったあの頃について語り合おうとしたが、上手く語り合うことができなかった。それどころか仲間たちの話している"盛大に脚色されたあの頃"や過去の失敗が、その当時の味気無さや鋭さを保ったまま、まざまざと脳裏に浮かんでしまうのであった。ビデオを見たことで記憶を風化させることができなくなってしまったのだ。  楽しかったあの頃という日々の支えを持つことができず、語り合えないが故に仲間たちもだんだんと離れていき、孤独になった子供はついに自殺をしてしまった。普通の両親達もこれには非常にショックを受け、心中してしまった。  やがてこの話も現実味のある悲しい出来事としてではなく、"残酷な悲劇"へと形を変えてフーカビカで消費されていくのであった。 「一体なぜこの本を僕に読ませたのですか?まるで僕がどういう人間なのか知っているかのようです。見透かされているかのようです・・・」 老司書はふっと微笑んで答えた。その微笑みは寂しさや悲しさを含んだものであるように感じられた。 「この図書館は最期の示唆の場所なのです。主は人をよく見ておられます。見透かされたように感じたのであれば、それは私によってではなく主によってでございます。私はあくまでもただの司書でございますから。」 敬虔な信徒なのだろうか。いまいち飲み込めなかったが、僕はそこまで強く信じられるものは見つけられなかったので、この老司書のことを少し羨ましく思った。 「さて、ここからはあなたが、あなた自身でよく考える時間でございます。」 「考える?何をですか?」 「手がかりはその本の中に、答えはきっとあなたの中に。もうすぐ夜になります。どうかお急ぎなさい。」 「夜になると何があるんですか?」 「夜になったらあなたは出ていくことになるでしょう。ここは長居できる場ではございませんから。」 そう言って老司書は奥の部屋へと姿を消した。  僕はなんだかどっと疲れてしまったので、窓際の椅子に座り壁に寄りかかった。外を見るともはや太陽そのものは地平線に沈んでしまったのか、ここからは全く見えず、空の色も青紫と赤紫が混ざり合ったような色になっていた。ぼんやりと遠くの空を見ながら、夕方にはよく見られるこの景色も、改めて見るととても綺麗なものだなと考えていた。日陰に入りたいとさえ思っていたのに、今では太陽が見えないことが少し寂しくさえ思えた。  そういえば、さっきの本にも過去のつらい出来事を美化してしまう話があったが、人間とはまさしくそういう生き物だと思った。たった1,2時間前に味わった暑苦しささえ、すぐに忘れて脚色してしまえるのだから。  いや、それでもあの本の中には些細な幸せについて語り合う場面はなかった。どうしてだろうか。唯一ありのままの過去を見た子供でさえも最期には自殺をしてしまった。どうして映像に映っていたはずの日常を、ありふれた普通の幸せを、感じ取れなかったのだろう。脚色などしなくても眼前に広がる景色の中に幸せはあったはずだ。彼らには仲間がいた。少し上を見れば空があった。辺りを見れば草花もあっただろう。その香りについてもっと語り合うことができたはずだ。好きな音楽だってあったはずだ。  この時僕は、なんだかとても音楽が聴きたくなっていた。なんだかとても音楽が作りたくなっていた。  僕は僕が作りたい音楽を作れないのだとしても、それでも作るべきだった。失志に目を向けて、悲劇的な陶酔をするのではなく、音楽が好きだと思えるという純なこと、そういうところに宿る幸せに目を向けるべきだった。 「しっかりしてください!」 気がつくと目の前には老司書が立っていて、僕の身体を強く揺すっていた。 「すみません。どうも眠ってしまっていたようです。」 「いえ、あなたは眠っていたのではございません。残念ながらいささか遅すぎたようです。」 「どういうことですか?」 「もう夜になってしまいましたから。人生と同じなのです。若々しい朝から年老いた夜になるにつれ、人はどんどん記憶を蓄積し風化させていく。そしてそれを美しく装飾し、その想い出のことばかり考えるようになる。今も過去のことを考えていたのではありませんか?こうできたはずだ、ああすればよかったと気づいた風でいて、しかしそれすらもただの陶酔でしかないのです。あなたはここに来た時にはもう彼の街へ誘われておりました。途中で看板を見かけたでしょう。あそこが街と現実との分岐点なのです。ところがあなたは直接街には向かわずこちらへいらしたので、もしかしたらまだ間に合うかもしれないとも思ったのですが」 「あの本は作り話ではなかったのですね。僕はこれからどうなるのでしょう?」 「あなたはこれからここを出て真っ直ぐ歩いてゆくでしょう。看板を通り過ぎてまっすぐに、分岐点の左の道へと進んでゆこうとするはずです。その先にはフーカビカがございます。きっとそこでは多くの仲間があなたのことを快く受け入れるでしょう。あらゆることは風化し美化され、そして穏やかに土に環ってゆくのだと思います。」 「きっと幸せなのでしょうね。」 なんとか会話を続けていたが頭の中では初恋の相手のことを、彼女との初めての口づけのことを思い出していた。全てが上手くいっていた時代だ。 「これを持っておゆきなさい。どうか足元にお気をつけて」 老司書は悲しげな微笑みを浮かべて、ランタンを差し出してきた。 「ありがとうございます。最期にお話ができてよかったです。さようなら。」  戸を開けて、すっかり暗くなった外の世界へ歩き出した。足取りは軽かった。  この時の僕は口笛を吹いていなかった。歌を歌ってもいなかった。ただ過去のたくさんの幸せな経験が僕を満たしているだけだった。街へ続く小道を歩いていると、ふと視界に映り込んでくるものがあった。  それは図書館へ行く前に見たイラクサやエニシダだった。  するとその瞬間、飽和状態であった僕の意識に遠くから音が流れ込んできた。最初はそれを認識していなかったが、次第にはっきりと聴こえ始め、それが音楽であることがわかった。  あぁ、この懐かしい旋律はショパンのエチュードだ。  その時、装飾だらけの想い出を、音楽が好きであるという現実的な実感が貫いた。現実を生きているという実感が戻ってきた。僕は嬉しくて涙が出てきた。まるで主が正しい道を示してくださっているようだった。主は本当に人のことを良く見ていらっしゃるのだ。  僕にとっての神は音楽に宿っていたのではないか! そうして僕は急いでペンを出し、また想い出に支配されてしまわぬうちに急いでこの遺書を書こうと決めたのだ。気がつけば僕の周りからイラクサやエニシダは消えていた。きっと僕に祈りを捧げる聖職者もいなくなるだろう。  それでも僕は自分が信じるもののためにゆく。このまま黙っていれば、苦しみや悲しみでさえも安らぎとなる静謐の地、彼の街に誘われるだろう。  それでも僕は自分が信じるもののためにゆく。  今更虫がいいことはわかっているが、それでも、せめて、僕は自分が信じるもののためにゆきたいのだ。  何事も遅すぎるということはないと言うが、それは大きな誤りなのだ。僕は遅すぎてしまった。いつかこの道を通る者がこれを見つけることを祈るばかりだ。  それでは、この後悔すらも美化されてしまわぬ内に、僕はゆきます。  僕はペンを心臓へ突き刺した。ただ音楽と死へ至る痛みだけがあった。